夫婦で海を挟んでの別居を解消するまでの長い話(その11・最終回)

この記事では、妻のアメリカ転勤で別居していた我が家が、私の退職という形で別居を解消することになった経緯を書いています。退職決定後のボーナス査定の様子と、久々に家族で過ごした日本の冬休み、そして日本からアメリカに引っ越した日のことについてご紹介します。

夫婦で話し合った結果、上司に退職願を提出したことを前回の記事に書きました。そして時期は12月、ボーナスと冬休みの季節がやってきました。随分と長くなったけれど、この記事が最後です。

スポンサーリンク

退職を決意した私のボーナス査定は?報復査定とかあるの?

退職願を提出したのが11月の下旬でした。私の勤務先では、半年ごとにボーナス(賞与)が支給されていました。比較的年功序列型の賃金体系ではあったものの、半年間の成果に応じて若干ボーナスに差が出ます。1月末退職の私も、半年間の成果に応じたボーナスを12月に貰えることになっています。

とはいえ、退職を伝えた身なので、最低ランクの評価を覚悟していました。なお、ボーナスの評価対象期間は4月から9月で、「頑張ればアメリカ転勤もありうる!」と燃えて働いていた時期です。

評価を伝えるための面談を上司が設定し、私の評価を説明してくれました。意外なことに、上司が伝えた評価は上から2番目に良い評価でした。私は8月から異動したので、その上司は私の半年間の一部しか見ていません。上司の説明によると、本来ならばこの評価は半年間の成果なのだが、一緒に働いた8月から9月までの動きだけで判断した、とのことでした。

退職を決めたにも関わらず、公平かつ良い評価を出してくれた上司には感謝の気持ちで一杯です。

ただ、その後に上司は「とはいえ、10月以降の動きはイマイチだったかなー」とチクリと一言。その辺りは、退職や休職で正直あんまり仕事に身が入っていない時期だったので、それを言われてもなあー、と聞き流してしまいました。

評価サイクルって、継続して勤務する大前提が崩れると、機能しなくなるんだな、と退職を決意してはじめて気付きました

妻と息子が日本に帰ってくる!家族の時間を満喫した冬休み

私の仕事は、アメリカの拠点との事業戦略を立てる、というものでした。ただ、退職することもあって(上司とその上司くらいしかその事実は知らない)、立ち上げ部分だけを私がやり、後は上司が引き継ぐ、という進め方をしていました。微妙に責任感の無い私の立ち振る舞いに、周りの関係者は若干やきもきしていたようです。(「ここは私がやり遂げます!」って言いたくても言えないですからね。)

冬休み前に仕事はひと段落しました。いつもならば冬休みを長くとってアメリカの家族に会いに行くとことですが、妻子が「定期的に家族で帰国する分の渡航費を会社が負担する」という制度を使って年末年始を日本で過ごすべく一時帰国してきました。そんなわけで私は毎日のように定時退社して、家族との時間を満喫しました。

  • 焼肉ランチに行ったら息子が全部私の肉を食べる
  • 息子、お寺の駐車場に駐車してあるコルベットを発見する
  • 保育園が一緒だった友達と再開して息子喜ぶ
  • 家族3人で特大盛りのつけ麺を1杯食べる
  • 案外近所を走っていた路面電車に乗る
  • 実家で栽培していたダイコン収穫
  • 息子、焼き鳥とたい焼きを食べる
  • 保育園のパパママ友とクリスマス会をする

などなど、久々に家族で過ごす日本の冬休みは楽しいことだらけでした。

退職するのに有給は全部消化すべき?

さて、職場の話に戻りましょう。1月31日付で退職を依頼したけれど、公示されるまでは、上司とその上司、そして人事の人しかその事実を知りません。ガッツリ有給を使おうと思ったものの、本当に退職が確定されているのか不安で仕方がありませんでした。(7月に異動すると言われていたのに実際は8月だったし、休職も受理されかけて取り消されたし、口約束が一切信用できなくなっていた)

1月の上旬は大した仕事もなく、毎日定時帰りでした。退職日2週間前に退職が報じられたので、そこからは晴れて全部休み、最終日だけ出社しました。

30日くらい有給が残っていたけれど、結局20日くらい残してしまったので、勿体無かったなと思います。なんせこれが初めての退職なので、「有給をどれくらい使えばいいですか?」なんて会社の同僚に聞いたりしてましたが、転職をした立場から言うと、「全部使い切って去るのが正解」でしたね。

3週間に渡る送別会ラッシュ、会社を休んでも会社の近くに通う日々

私は比較的異動の多い会社生活だったので、いろんな部署にお世話になった方がいました。退職することになり、そういう方々からとにかく送別会のお誘いをうけました。とはいえ有給を使っているので、仕事終わりに、と言うわけにも行きません。そんなわけで、有給を取得しているのに、夕方になると会社周辺まで出かけて行って飲み会に参加、という不思議な生活を2週間近く続けていました。

なお、取りたい資格があったので、日中は資格勉強をしていた関係で、日中勉強→夜は飲み会→翌朝遅めに行動、とそれなりにリズムある生活をしていました。

退職して数日後には渡米してしまうので、会社以外の友達も送別会を開催してくれました。そうなると土日にやることになるため、本当に3週間毎日休みなく何かしらの送別会をやっていました。

退職後、自分でやらなきゃいけない事・配偶者任せな事

退職後、これまで会社にお世話になってた世の中の手続きがゴッソリとなくなりました。厚生年金の積み立て、退職金、財形貯蓄、健康保険の支払い、税金、確定拠出年金の運用…などなど。

親切な事に、退職した会社からが一通り手続きマニュアルのようなものを提供してくれたので、そこまで困る事はありませんでした。ただ、会社員って色んな事を知らなくても生きていけていたのだな、と痛感しました。

(すぐに国外に引っ越すとはいえ)これからは無職として、いろいろ自力でやらなければいけないのだな、と思っていた矢先に、妻の会社から様々な申請書が届きました。

無職になったので、私は妻の扶養家族に入ることになったのです。そうして手続きをすることで、年金、健康保険は今度は妻の会社が面倒を見てくれることになりました。専業主夫って恵まれているんだな、ということもわかりました。

自己都合退職とはいえ、職を失ったので、失業保健支給対象になることもわかりました。ハローワークで申請すれば幾らかのお金が毎日貰えるようです。(申請しないともらえない)

ただし、調べた結果、私の場合は海外に引越すので受給資格が無いようです。その代わり、しかるべき手続きをとると「受給資格の保留扱い」となって、帰国後に失業保険を貰えるようになるとか。配偶者の転勤に伴って退職・海外移住した人も失業保険を貰える救済措置のようなものでした。一部の手続きは私が出国後に行わなければならず、実家の母に頼んで書類を送ってもらうような手はずを整えました。

そして、一番肝心なビザも無事発行されました。妻の会社経由で手配された引越し業者に身の回りの荷物を妻の住むアメリカのアパートに送ってもらい、妻の会社が負担してくれた成田エクスプレスに乗って空港に向かい、妻の会社経由でチケットを確保された飛行機に乗ってアメリカに到着です。ここは特にドラマはなかったです。

おわりに

そんなわけで、私の海外勤務で幕をあげた別居生活は、1年と10ヶ月と数日をかけて、ようやく幕を閉じました。幕を閉じたのがアメリカだなんて、昔の私には想像も出来ない世界だったでしょう。

その後、アメリカで仕事を見つけたり、家を買ったりして、日本に戻って、今は日本で働いています。

職その1:アメリカでの就労許可の手続きはいったい何日かかる?恐るべしお役所仕事の実態
この記事では、アメリカで就労するためにまず最初に必要な文書「就労許可証」の申請について書いています。 アメリカで働くには、ビザが必要で...
家その0:はじめに〜我が家がアメリカで家を買うまでの流れ
サブプライム問題の記憶が薄れた2015年の秋に、アメリカで一戸建て住宅を購入しました。アメリカに引っ越して、住宅購入を考えている日本人の方の...

当時の日本人男性にしてはかなり珍しい決断をしたと自分では思っています。しかし、アメリカ人にその話をすると、「やっぱり家族のためには当然の決断だよね」と言われることがほとんどで、あまり驚かれませんでした。それまで考えたこともなかったけれど、仕事より家族が大事、という価値観が日本では無意識のうちに押しやられてるのかもしれません。

息子とは、それはもう毎日仲良くしていました。だんだん大きくなってくるにつれ、父親にべったりとはいかなくなってきますが、ここでの決断が、私と彼との仲の良さを深めたことは間違い無いでしょう。

私の体験は極端すぎる体験談だとは思いますが、もしこれを読んだあなたが、何かしらの人生の決断をするときの参考になれば、これほど嬉しいことはありません。

※一連の記事は、2015年に私が渡米して、就労ビザが出るまでの暇な日々に、体験談を記憶が残っているうちに書き留めておこう、と、当時運営していた別のブログに記載したものを、多少加筆修正したものです。退職直後の気持ちに割と素直に書いていたので、今から読み返すと、ちょっと違うな、と思うところもあるけれど、あえて残します。10年後、20年後に息子がひっそりと読んでもらえることを楽しみにしています。